神戸の春に編む

神戸の春に編む

  春の日は、神戸の街を優しく包み込む。北野の小高い丘に住む私、純子は62歳。生涯を通じて、編み物は私の静かな情熱であり続けてきた。子供たちはもう独立し、夫は仕事が忙しく、家にいることは少ない。私には時間がある。時間と、糸と針が。


 夫との関係は決して悪くはないが、何年も前からすれ違いが続いている。私たちは共に年を取り、それぞれの興味が少しずつ変わってきた。私は編み物に、彼は仕事に、さらに没頭するようになった。それでも、私たちは互いに尊敬し合っている。

 私の編み物への愛は、静かだが深い。それは単なる趣味ではなく、私の人生の中で、自分自身を表現し、創造する方法の一つ。編み物をする時、私は完全にその瞬間に没頭できる。糸の感触、色の変化、作品が徐々に形を成す過程に、私は自分自身を見出す。

 編み物は、私にとって、生活の喜びを再発見する手段でもある。子供たちが家を離れ、夫が常に忙しい中、編み物が私に安定と安心を与えてくれる。糸と針を手にすると、私は自分の内なる声に耳を傾けることができる。編み物は、私にとって、沈黙の中での瞑想とも言える。

 そんな私が、ある春の日、ある毛糸と出会った時、何か新しいことを始めるべきだと感じた。この特別な毛糸は、私に新たな挑戦を与え、また新たな自己発見の旅を始めるきっかけを与えてくれたのだ。

 春の光が街を柔らかく照らす中、私は北野の坂を歩いていた。空は透き通るように青く、桜の花がほころび始めている。季節の変わり目はいつも、私にとって新しい何かを始める最適な時。そんな時、私が足を運んだのが、「macono」という小さな編み物店だった。

 店内に一歩踏み入れると、様々な色と質感の毛糸が目に飛び込んできた。壁一面に並べられた棚は、まるで色とりどりの絵の具で描かれたパレットのよう。そんな中、ひときわ目を引いたのが、トゥーラ ツイードという名前の毛糸だった。その独特な質感と、自然からインスパイアされたかのような色合いに、私は思わず手を伸ばした。

 店の主人、真知子さんによると、トゥーラ ツイードはメリノウールとリサイクルコットンのモダンな混紡で、編むと自然にストライプが生まれ、上品なツイードの風合いが特徴だという。チェーンネット構造により、軽くて暖かく、ピリングしにくいのが魅力だった。特に、編む際には、普通の撚り糸よりも大きなサイズの針を使用することで、理想的な密度の生地が生まれるそうだ。

 この毛糸を手に取り、質感を確かめながら、私はあるプロジェクトを思い描き始めた。このトゥーラ ツイードで何か特別なものを編みたい。それは単なる編み物以上のもの、自分自身を見つめ、新たな発見をする旅の始まりのようなものであるべきだった。

 その時、私はまだ知らなかった。この毛糸との出会いが、私の日常にどれほどの変化をもたらすことになるかを。

 心を躍らせながらmaconoを後にした私は、トゥーラ ツイードで何を編むか、心の中で様々なアイデアを巡らせた。そして、決めたのは、春の神戸、特に北野の風景を映し出すような、色とりどりのストールを編むことだった。

 このストールに込める想いは、ただのアクセサリー以上のもの。私の人生の節目、そして新たな自我を探求する旅の象徴として、トゥーラ ツイードを用いることにした。この独特の毛糸の質感と色彩が、私の内なる変化と成長を表現するのにふさわしいと感じたのだ。

 編み始める前に、真知子さんから受けたアドバイスを思い出し、ゲージを取ることから始めた。トゥーラ ツイードの特性を活かすためには、通常よりも大きめの針を使って編むことが重要だという。編み目の密度を調整しながら、ストールに最適な針のサイズを見つける作業は、私にとって新たな挑戦だった。

 トゥーラ ツイードの魅力は、その豊かな色彩にもある。春の北野をイメージしながら、桜の花びらのピンク、新緑のグリーン、空のブルーなど、季節の移り変わりを感じさせる色を選んだ。これらの色が織り成すストライプは、人生の多彩さと、その中で見つける一貫した美しさを象徴している。

 ストールを編み進める過程で、私は自分自身との対話を深めていった。針を進めるごとに、これまでの人生を振り返り、そしてこれからの人生に何を求めるのかを考える時間となった。編み物は、単なる趣味を超えて、自己発見と自己表現の手段となった。

 このプロジェクトは、私にとってただの編み物以上の意味を持っていた。トゥーラ ツイードで編むこのストールは、新しい自分への第一歩であり、自分自身を受け入れ、前に進む勇気をくれる作品となった。

 トゥーラ ツイードでストールを編み始めてから、私の日々は変わり始めた。編み物の時間は、私にとっての静寂の時間。針と糸が紡ぎ出すリズムは、心を落ち着け、思考を整理するのに役立った。ストールが徐々に形を成すにつれ、私の内面も変化していくのを感じた。

 この編み物を通じて、私は長年忘れていた自分自身との対話を再開した。子供たちが家を出て行き、夫との関係が変化しても、私は常に誰かの妻であり、母であることに重点を置いていた。しかし、トゥーラ ツイードのストールを編みながら、私は自分自身の個性と、これからの人生で何を望んでいるのかを深く考える時間を持つことができた。

 編み物は、過去の自分を振り返り、未来に対する希望を見出す過程となった。糸の色が変わるごとに、私の人生の様々な章が思い浮かんだ。若い頃の夢、結婚、子育て、そして今。編み進めるごとに、これまでの人生に感謝し、これからの人生に対する新しい理解を深めることができた。

 最も重要なことは、このプロセスを通じて、自分自身をもっと受け入れるようになったことだ。私は、自分の欠点と長所を認め、それらを通じて成長することができる。ストールの編み目の一つ一つが、私の人生の選択と同じように、美しくもあり、不完全であることを受け入れた。

 トゥーラ ツイードで編むストールは、私にとってただの編み物以上のものだった。それは、自分自身を見つめ、受け入れ、そして成長する過程であり、完成した時、私は新たな自分を発見していた。

 この経験は、私に自分自身との和解をもたらし、人生の新たな章を始める勇気をくれた。編み物を通じて、私は自分の心に耳を傾け、内なる声に従うことの大切さを学んだのだ。

 春も末期に差し掛かり、私がトゥーラ ツイードで編んだストールが完成したその日、私は再びmaconoへと足を運んだ。このストールは、自分自身への挑戦だけでなく、真知子さんとの出会い、そして彼女から受けた助言とエールがあってこそ完成した作品だった。私の心の中で、このストールを真知子さんに見せることは、一つの大切な節目となっていた。

  店内に一歩踏み入れると、真知子さんは温かい笑顔で迎えてくれた。完成したストールを見せると、彼女は驚きとともに、深い感動を示してくれた。この作品を通じて伝えたかった、色彩の美しさ、そしてそれぞれの色が持つ物語と感情が、真知子さんにもしっかりと伝わったようだった。

 「これはただのストールではないわね。純子さんの人生そのものが編み込まれている...。」真知子さんのその言葉は、私の心に深く響いた。私たちは、編み物という共通の言語を通じて、深い理解と共感を共有しているのだと感じた。

 真知子さんは、このストールをきっかけに、maconoで私の作品展示会を開くことを提案してくれた。初めてのことで不安もあったが、真知子さんの励ましと支持があれば、私にも新たな挑戦ができると確信した。これは、私にとって新しい一歩を踏み出す絶好の機会だった。

 展示会の日、多くの人々が私のストールを見にmaconoに訪れた。彼らの反応を見て、私は自分の作品が人々の心に触れることができる喜びを深く感じた。真知子さんとの出会い、そしてこのストールを通じて、私は自分自身の新たな可能性を見出し、人生の新しい章を開く勇気を得たのだった。

 トゥーラ ツイードで編んだストールは、私にとって過去を振り返りつつ、未来への希望を繋ぐ大切な橋渡しとなった。そして、この経験は私に、いつでも人生の新たな章を始めることができるという大切な教訓を教えてくれた。

※この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

 

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